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吉井純起コラム  /  

August 2018

経験値を書き換えろ

 2018年7月、西日本を襲った豪雨は、大きな爪痕を残し去っていった。私は広島の生まれである。母と弟は広島に、妹は呉市に住んでいる。当然、今回災害の起こった地域は土地勘がある。山の谷筋に沿って住宅が立ち並んでいる所だ。テレビで見る変わり果てた故郷は、40℃近い酷暑の中で押し流された土砂が固まり、その表面を生温い風が吹き付け土埃を舞い上げている。昨日まで、普通に生活していた人が突然の災害でその生涯を終える。無情である。山口県でも残念ながら3名の方が亡くなられた。その中のひとりは、知り合いのお父さんであった。行方不明の一報から、どうか無事でいて欲しいと願ったが届かなかった。謹んで亡くなった方々に哀悼の意を表したい。
 しかし、何故こんなに被害が拡大したのだろう。私なりに考えてみた。豪雨の始まる金曜日、朝から携帯が警告音をけたたましく響かせる。しかし、外を眺めても大事に至る気配はない。その為、この警告音と天気との落差に、半ば苛立ちを覚えながら仕事に追われていた。その後も、立て続けに発せられる警告が届くが、危機意識は皆無、完全に防災意識は欠如していた。また、テレビは土日であったためか、東京からの全国放送で構成され、地元の情報は残念ながら伝わってこなかった。東京のことは、少しの雪でも、小さな台風でも、全国へ向けて放送するが、西日本の出来事はこんな扱いかと、マスコミに腹立たしさを覚えたのも確かである。これは、東北の方々も同意見だろう。東京への一極集中をこんなところで、違う角度から突きつけられるとは思わなかった。
 宇部市には大雨が降るとよく浸水する地域がある。ただ、いつも決まった地域なので、警告が発せられても、自分が今いる場所は大丈夫だと自己判断してしまう。その経験値に沿った思い込みこそが、防災意識を欠如させる過信だ。
 台風に対する備えは、この地域では空港が冠水した平成11年の記憶から危機意識が共有されていると思う。暴風雨と高潮の破壊力は、生活の中にも刻まれているからだ。しかしながら、昨今の災害はその「経験値」や「高齢化社会」が被害を大きくしている。
 幸いなことに、今回の豪雨では私の暮らす宇部市は無事だったが、危機意識が皆無だった現実を思い起こすと今さらながら恐くなる。日本に暮らす以上、誰がいつ災害に巻き込まれるかわからない。つまり、経験値から導きだしていた今までの安全神話は当てにならない。荒ぶる自然の猛威を、現代の日本の気象に照らし合わせて、経験値に組み込む必要があるのだ。どこで何が起こっても不思議ではないという認識を持つ意識こそ、更新し続けなければならない。そして、もうひとつの問題である「高齢化社会」。今回の災害で多くの高齢者が自宅で亡くなられた。高齢者が避難したくても躊躇する現実をどう解決するか。これは役所に頼っていたのでは時間が足りない。一番頼りになるのは近隣だ。この地域力の強化こそが、我々が出来る防災である。
 最後に、私はデザイナーという職業柄、伝えるという行為を常に意識している。今回のような状況下での情報の伝え方、受取り方に改善点はないのだろうか?私がイメージするのは、昨今医療現場で痛さを数値で伝える指標である。痛みのないゼロから始まり、絶えられないくらい強い痛みを10とする数値化だ。患者はそのカードで痛みの程度を医師に伝える。今回も気象庁はかなり早めにそして懸命に伝えたが、深刻に受け取られなかった現実を考えると、目と耳で的確に伝える指標を作る必要がある。
 さて、豪雨が過ぎさった今、今度は記録的な猛暑である。夜はクーラーを付けないという経験値を持つ人は多いだろう。しかし、これは書き換えの必要な経験値である。酷暑の夏、最高気温は今夏に更新されるかもしれない。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起