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吉井純起コラム  /  

November 2014

謝罪

 この何ヶ月か、政治家や企業のトップ、スポーツ選手が行う、いくつかの釈明会見をテレビで見た。昨今は不祥事や事故に対しての説明責任が問われており、このような会見が多くなったように思える。そして、視聴者は会見を通して真実を見抜こうとする。その謝罪に心は込もっているか、釈明は真実か、反省しているか、受け手側は会見を疑心暗鬼で見つめることになり、陪審員の如く声色、表情、洋服、髪型、化粧までに観察眼は及ぶ。特に、ハイビジョン放送となってからは、心の揺れを見逃すまいと、瞳の揺れ具合まで、まるで魂がそこに有るかのごとく覗き込む。
 しかし、この状態は見る側に好印象を与えるように演出されており、型にはまったステレオタイプに違和感を感じてしまう。その為、受け手は真実を見抜こうと構え、真実と演出のズレを探すことに集中する。謝罪会見で、頭を下げる際はお辞儀した姿勢で5秒間は静止するべきだと聞く。これは、危機管理のノウハウの一つらしいが、そんなことを思いだしながら、謝罪のために頭を下げる姿に、つい「一、二、三、…」と数え、アニュアル通りの行為を求める自分がいるのも事実だ。
 海外では、謝罪よりも釈明に重きを置き、日本のように謝罪から入るのは珍しいという。日本人は、何も損害を与えていない世間に対しても、「お騒がせして、申し訳有りません」と、まず謝罪する。また、他人に呼びかける時にも「すいません」と声を掛けることもあるが、これは、ほぼ「こんにちは」に匹敵する言葉だ。また、有り難うという言葉の代わりに、「すみません」とも発する。つまり、日本人の謝罪の言葉は幅広い意味を持つのだが、残念ながら海外からは日本人は謝ってばかりいるように見られてしまう。しかし、反対に日本人からすると、海外の人は謝罪しないと嘆きたくなるが、断然、こちらが国際基準といえる。海外では謝罪すると自分の非を認めたことになり、そこからさまざまな不利益が自分に降り掛かる結果を招く。だから安易に謝罪の言葉を口にしないのだ。日本人も世界が近くなった今、この国際感覚を身につけないと世界では生き抜くことは許されない。
 さて、最初の「謝罪」の話しに戻そう。謝罪は被害者や社会に対して、信頼を回復し、関係を修復するために行われる。少し前になるが、8月に朝日新聞が従軍慰安婦問題を検証する記事を掲載した。訂正が遅きに失したことで、日本の国益が損なわれたにもかかわらず、謝罪の文字がないと叩かれた。斯く言う私も、朝日新聞の購読を止めてしまったのだから、少なくとも私との信頼回復には失敗したのだ。やはり、日本人は「謝罪」にこだわっているのかもしれない。
 私と言えば、この年になっても幸か不幸か? 門限が存在するのだが、間に合わなかった時の謝罪はうまくいかない。まず、謝罪が出来ない。次に、俄然雄弁になり不自然な状況説明をするらしい。もちろん反省の弁もなく、その姿をテレビに映し出されたら、危機管理能力に欠け完全にアウトだ。やはり、謝罪は難しい。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

August 2014

生命力

 久しぶりに、上海に出張した。それにしても、凄まじい勢いで変貌を続ける上海の街は、きらびやかだ。しかし、人間臭いところは消える事なく、相変わらず野性味溢れる中国だ。人々の欲望は限りがなく、取り残される焦りを感じながら、何かを掴もうと必死で手を伸ばしている。ある意味、生命力に溢れているが、個の非力さを長い歴史の中で知り尽くしている故の、防御策がいつのまにか気質となったのかもしれない。例えば、大声で喋るのは、権力者批判と捉えられない為に、密告を恐れ、やましい話はしていないというアピールが習慣になったというのだ。まぁ、単純に国土が広いという背景もあるのだろうが。
 さて今回は、中国で活動する日本人企業家の紹介を受けての出張だったが、上海の山口県人会にも参加させていただき、本当に貴重な機会を得た。この日本人企業家は、上海を拠点に日本の製造機械をアジアで販売しているのだが、まだ40代半ばの彼は、持ち前の行動力と洞察力で仕事の域をますます広げている。余談だが、可愛い中国人の奥さんもいる。彼もそうだが、当初は上海の地でも、山口県人は逞しく生き抜いているなと感心していた。いや、生き抜くのではなく、しなやかに溶け込んでいる感覚だ。異質な文化や習慣への柔軟な順応力の持ち主だけが、根を下ろすことを許される。また、言葉の壁を超える察知能力も必須事項だ。なにせ、同じ漢字を使い、容姿も見分けがつかない隣国であるが、油断は禁物で、他人の心の機微を読み取る能力に長けていなければ、歴史に翻弄され、出来上がったタフな国民にはとても太刀打ち出来ない。
 日本では、広島で大変な災害があった。上空から映し出された大規模な地滑りは、災害の多い日本という国の地形を改めて認識させられた。私の実家は広島で、盆に郷帰りしたばかりだ。母は、まさに土砂災害のあった安佐南区に一人で住んでいるのだが、山際ではないので何事もなかった。ただ8月20日未明の激しい雷と雨に、恐怖で震え上がっていたという話を聞いた。災害現場を見ると、あの状況では避難できない人が多かっただろう。せめて最悪な事態を予想して2階に避難するか、木造ではない近隣家屋に逃げるかしかない。
 このような大きな災害となると、停電・雷鳴・豪雨で、防災無線は聞き取りにくく、行政の避難誘導は期待できない。つまり、大きな災害であればあるほど、一瞬で状況を判断し正しい行動を取ることが、生死を分けることとなる。日頃から、個人で情報を精査し、洞察力を養うこと、そしてカンを働かせることを鍛錬しておく必要があるが、自分を含めて平和で安全な暮らしに慣れきった日本人は危機意識に乏しく、自分は大丈夫だとどこか他人事である。安全はいつでもどこでも、必ず提供されるものではないのだ。
 最初に、上海で活躍している日本人のことを記したが、みんなアンテナを張り巡らし、しなやかに生きている。なにをやっても一筋縄ではいかない中国である。夢と現実を天秤にかけながら、現実の生き方を模索する。そういえば、日本のサッカー選手が海外チームへ移籍すると顔付きが変わる。野性味が溢れるのだ。これが、環境により感性が研ぎすまされたということだろう。同じ場所に留まることは、安全だが停滞でもある。違う環境に身を置くことで生じる付加がカンを養い、生き抜く力を強くするはずだ。私も身体は無理だが、まだまだ心は鍛えることが出来そうだ。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

June 2014

おばけあります

 「おばけあります」、このフレーズに「わかる、わかる」とほくそ笑んだ方はきっと邦画ファンに違いない。そう、この言葉は20年前の映画「居酒屋ゆうれい」の舞台となる居酒屋に貼られているフレーズで、「冷やし中華あります」と似たニュアンスを持つ言葉として登場する。おばけとは、漢字で「尾羽毛」と書き、鯨の尾の部分を言う。山口県では「おばいけ」と呼ばれ、黒いライン状のフチがある、真っ白でちりちりとした馴染みの物体だ。物体と称したのは、子どもの頃にはこの正体は一体何だろうと感じさせられる謎の存在だったからだ。大人は酢味噌で美味しそうに食するが、子どもには理解できない。それに、調理後の出来上がりを見て、大抵の料理は素材が何であるかを想像できるが「おばいけ」だけは正体不明だった。こんな回想を巡らせつつスーパーの売り場に並ぶ鯨の刺身を眺めていたら、反捕鯨国はこの食文化をなかなか理解できないだろうなと、妙に納得される心境となった。
 今年3月、日本の南極海捕鯨に対して、国際司法裁判所が調査捕鯨中止の命令を出した。何故、この様な判決が下ったのか日本人にはさっぱり理解できないが、ニュースには全面敗訴の文字が踊っていた。世界から突きつけられた事実を受けて、日本を憂いずにはいらない感情が沸き上る。鯨が食卓から消えるという淋しさからだけではない。日本は捕鯨でも譲歩しなければならないのかという憂いからだ。
 そもそも、国際司法裁判所が日本の調査捕鯨に対して疑問を呈したのは調査に必要な捕獲枠と実際の捕獲数が違うことだ。日本は南極海で年間1035頭の捕獲枠を定めているが、近年は3割も捕獲していないという。それも殆どがミンククジラに集中し、調査に必要とされる他の種類を捕獲していないとの理由があげられている。この様な事実があると調査捕鯨の正当性は失われ、国内の流通に考慮した在庫調整と疑われてもしかたない。納得はできないが、捕獲数が少な過ぎてもいけないのだ。
 しかし、それ以前に何故商業捕鯨が禁止されるのか私には疑問である。海に囲まれた日本人は縄文時代から鯨を食料とし、貴重な食料源として永い年月をかけ、鯨を無駄なく利用する術を育んで来た。正に日本が誇るべき食文化だ。だが、鯨を食べる習慣を持たない国から見ると、哺乳類である鯨を食べる行為は野蛮な文化に映るのだろう。そして、鯨を環境保護の象徴に据えて、捕鯨国に環境破壊国家のレッテルを貼ろうとする。そもそも現在の捕獲は資源状況が健全な鯨種に限られ、乱獲による鯨資源の枯渇は防がれている。一方、日本人にとって深刻なのは、頭数が増えることにより鯨のエサとなる漁業資源の減少である。国際社会では異なる文化を互いに尊重し合う精神が求められ、自国の価値観を他国に押しつけるべきではない。どうも、首相の靖国参拝に対する批判と似た構図が重なって見えてくる。
 日本は他国と海で隔たれているために、自国の主義主張を正確に伝えるコミュニケーション力を鍛錬することなく、今日まで何とかやり過ごしてきた側面を持つ。だが、現在の国と国との距離が縮まった時代においては的確なプレゼン力を備えなければ、国力の損失に繫がるのだ。ここで重要なのは理屈をもってのみ主張するプレゼン力ではない。新たな戦略として取り入れるべきは美や文化を担保したイメージ戦略だ。世論は東京オリンピック誘致映像に費やした経費に批判を浴びせたが、これが国際基準といえる。理屈だけでテープルに臨めば、異質な理屈が返ってくる。残念ながら、多くの対立は偏見と傲慢から起きるからだ。人の世は善悪だけではなく、好き嫌いでも動いている。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

March 2014

北風と太陽

 日韓関係が冷え込んで久しい。この状況が続く中、私は「北風と太陽」というイソップ物語を思い出している。「北風と太陽」の話は、どちらが強いか?という論点で言い争う。いつまで言い争っても決着がつかないので、旅人の上着を脱がせたほうが勝ちだということになり、まず北風が冷たい風を思いきり吹き付ける。しかし、旅人はますます上着を押さえつけ、さらにもう一枚上着を着込んでしまう。諦めた北風に変わって太陽は、ぽかぽかと暖かく照らし、一枚、また一枚と上着を脱がしてしまうという話だ。
 日本と韓国の両国は、今まさに互いに冷たい風を吹き付け、何とか上着を吹き飛ばしてやろうと躍起になっている状態だ。そして、同時に頑に上着を脱ぐものかと押さえつけている旅人でもある。「イソップ物語」とは、動物などの性格や行動を通して、人生の処世訓をわかりやすく教えた寓話である。このまま、両国が一歩も引かない平行線を辿るより、どちらかが、太陽の立場に変わるべきなのだろうか。
 日本のネット上には、両国の関係は平行線のままでいい。困ることはないという意見が多く存在する。更には、李明博前大統領が竹島へ上陸したのをきっかけに、もの申さない日本人が声を挙げ始め、昨今社会問題化しているヘイトスピーチやネット右翼が増殖中だ。ある週刊誌のタイトルには「ある日、妻がネトウヨになりまして」という笑えない記事があった。ネトウヨとは、ネット右翼の略であるが、その殆どの矛先は、韓国へ向けられているようだ。韓国も反日を叫べば、政治家もマスコミも安泰というような風潮にある。しかし、私自身は民間レベルの個人的なつきあいでは、何も影響していないと考える。ただ、韓国が極度に反応する従軍慰安婦、竹島、旭日旗という言葉をもって、日本という国にヒステリックな批判が向けられると、正直平常心ではいられなくなる。だが、先日Jリーグの浦和レッズ対サガン鳥栖戦でサポーターがJAPANESE ONLYという差別的横断幕が掲げた。撤去しなかった主催者は処分を受けたが、そもそもスポーツの場でこの横断幕を掲げる日本人が出現するなど想像だにしなかった。ネット上の仮想右翼であっても、実際にそういった理不尽で恥ずべき行為を日本人は決して起こさないと考えていたからだ。みんなどこかに、不満を持ちつつある状況下、導火線が社会にあるのは危うい。
 私自身はここ最近、数回韓国を訪れている。昨年のゴールデンウイークも百済時代の歴史を巡る旅に出掛けたのだが、その時ガイドを勤めてくれた女性と日韓関係について話をした。この女性は30代後半で日本へ7年間の留学経験を持ち、日本には実の姉のように慕う日本人がいると言う。そんな彼女だからと安心して、こちらも踏み込んだ話をしたのだが、政治的な話になるとそれまでの笑顔は消え、強固な民族主義者に姿を変えた。こちらも負けてはならないと、日本側の主張をぶつけるが、こちらの論理的な話は通用しない。彼女の「日本が戦争に負けるからだ」と言う感情論で断ち切られた。
 こんな日韓関係の改善に答えが見いだせない私に、安倍総理の「河野談話を継承する」という発言が飛び込んで来た。その過程に何があったにしろ、太陽という存在に変わろうとしたのは、安倍総理なのか。この答えは時が過ぎ去るのを待つしかない。
 しかし、その一言をきっかけに、米国を交えての三か国首脳会談が決まり、ようやく関係改善への一歩が踏み出された。しかし、「北風と太陽」にはもうひとつのエピソードがある。旅人の帽子をいとも簡単に飛ばしたのは北風である。太陽が照らすほど、旅人はより深く帽子を被ったという話だ。日本はまだまだ重い荷を背負っている。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

january 2014

記憶遺産

 年末年始は異国の熱気を感じたいと寒い日本を抜け出した。目指すは日本人に人気沸騰中のマレーシアだ。この目的地は漢字による当て字では馬来西亜と表記され、馬と略される。正に午年のスタートを飾るに相応しい地だ。福岡空港から台湾と香港を経由し11時間、早朝ホテルの部屋の窓から見下ろすプールにはゆったりと休暇を楽しむ宿泊客の姿がある。この光景を目にして、改めて熱帯の地にいることを実感する。このプールには、全身を黒いウェットスーツで身を包む女性も泳ぐ。そうここは、イスラム教徒が6割を占める国である。女性が肌をあらわにすることは許されない。ホテルの部屋の天井を見上げるとメッカの方向に矢印がつけられている。祈りの方向だ。イスラム教の戒律では、飲酒や豚肉の食すことは許されない。そして、一日5度の礼拝や年に一回のラマダンと呼ばれる断食を行う義務を持つ。断食は空腹感を知り、貧しい人々のつらい思いを共有する機会となる。
 しかし、マレーシアに滞在すればするほど、多民族国家であるのに政情が安定していることに感心する。マレー系、中華系、インド系。なんとなく、職業的にも住み分けができている。そして、驚いたのは、アジアの国の喧噪と活力の象徴であるクラッション音を聞かないことだ。マレーシアも都会は大渋滞だが、クラクションの音を聞くことはなかった。多民族が暮らす上での知恵なのか、宗教的なものなのか、この現象は不思議でならない。こうした穏やかな国民性が東南アジアの優等生と呼ばれ、老後はマレーシアでと、日本人に人気が高まっている理由なのだろう。民族性の違いを認識し、尊重はするが、それに染まることはない。まるで見えない線が引かれているようだ。この国の与党国民戦線のシンボルマークは「秤」だが、この国の平和と安定は、政治が民族間の微妙なバランスを取ることで成立している。
 さて、マレーシアを縦断するように旅をしたが、道路の両脇には一面のヤシ畑が広がる。田舎に行くと、大きなドリアンの木がたくさんの実をつけている。この風景を72年前日本軍も見たに違いないと感慨にふける。当時はまだマレーシアという国ではなく英国の植民地であった。
 1941年12月8日、日本軍はハワイ真珠湾を奇襲攻撃する少し前、マレー半島の北部にあるコタバルに日本軍は上陸する。この史実から、実際の太平洋戦争開戦は真珠湾ではなく、マレー上陸だったとも言われている。日本はインドネシアの豊富な石油資源の獲得を目指しており、マレー半島を縦断するように一気に南下し、70日間という驚異的な速度でシンガポールを攻略した。こうして、一時的に日本が占領していたが、日本の敗戦とともに、再び英国の支配を受け、その後独立を遂げる。この独立の原動力となったのは同じアジア人である日本軍から得た勇気と自信であると語られている。事実、マレー人はマレー半島を進撃していく日本軍に歓呼の声を上げ迎えている。日本占領時にはイギリスの植民地時代と異なり、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育を行っている。
 しかし、戦争には美談もあるが、その逆もあるはずだ。私たち日本人に対してどのような感情が存在するのであろうかと、想像は難くない。だが、この国の人達は嬉しい事に私たちを人懐っこい笑顔で迎えてくれる。この国では「戦争の傷跡」ではなく「戦争の記憶」として浄化していると感じた。現在、日本人は入出国の書類の記入は不要で、パスポートの提示のみだ。戦後、日本の歩んで来た姿勢が平和国家として評価され、信頼という絆を両国が求め合っている証であろう。熱帯の国は、エキゾチックな姿で、未来へつなぐ「戦争の記憶」を垣間見せてくれた。旅行で一緒になった方々とキャメロンハイランドの地でカウントダウンを祝ったが、このビューティフルナイトは新たな年の門出を飾るに相応しい「平和の記憶」となった。ハッピー、ニューイヤー。幸多き年でありますように。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

january 2014, NewYear

デザイン小僧のままに

 新しい年、過ぎ行く年、感慨にふける暇はないほど、日本を取り巻く環境は熾烈だ。特にアジアの中での日本は、中国・韓国との関係が緊張感を増している。しかし、違う側面から捉えると、中韓と比べて、日本は成熟して来たと感じる。東京オリンピック、70年安保、高度成長、バブル崩壊、そして震災。この国は戦後、成長と挫折を繰り返し成熟して来た。上昇し続けることが叶わない悲しみを知り、克服する精神も持ち得ている。今は更なる成熟が必要で、アジアにおいての調和のリーダーシップを形成すべきだ。
 さて、自分のことで思い起こせば、青春時代、米国や欧州の文化や製品への憧れが、自己形成に向かう最初の原動力であったように思う。ビートルズやストーンズの音楽に憧れ、ボブ・ディランが唄うメッセージに入り込んだ。そんな私だが、昨年11月ポール・マッカートニーのコンサートに行って来た。仕事を終えて福岡まで駆け付けたため、着いたのは開演ぎりぎりだ。息も絶え絶えに走り込むと、同じような年代が必死の形相で駆け込んでくる。悲しいかな、焦る心とは裏腹に足は思うように動いていない。しかし、おじさん、おばさんがこれだけ必死に走る姿はひさしぶりに見たなと苦笑いしながら眺めていると、なんだかしみじみと心が温かくなった。同じ世代を生き、音楽という共通の宝物を抱え、コンサートに駆け付ける。幸せな国、幸せな時代に生きていると、つくづく感じた。さて、ポールと言えば、71歳でありながら、あっぱれである。何より、まだまだロック小僧なのだ。音楽が好きでたまらない、聴いてもらえるのが何よりの喜びといった様相だ。愛を求めるのでも、与え得るのでもない。愛の人だと今さらながら感じさせられた。好きなことを生涯の仕事とし、その幸せを表現しているのだ。才能を生かし、真を貫き、調和を図る。まるで、日本の目指す姿である。私もデザイン小僧として精神的な成熟を目指すが、この国の成熟にも期待する。頑張れ日本。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起