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吉井純起コラム  /  

December 2009

病は気から

 新しい年を前に日本を覆う焦燥感は一層深刻さを増しているようだ。円高と経済のデフレスパイラルは止まらず、今年度の税収は落ち込み37兆円となる見通しで、この規模は今を遡ること25年前、1985年の税収規模と同じ額だそうだ。問題のデフレスパイラルだが、国民の購買意欲が落ち込み、その結果企業はさらに安く商品を提供しようと努力する。消費者にとって物が安くなるのは嬉しい傾向だが、その結果、企業は経費削減を迫られ、リストラや給与のカットを余儀なくされる。これがデフレスパイラルの実体だが、この要因を考えると国民の意識に「日本の元気のなさ」が刷り込まれている側面が見て取れる。
難しいことは金融の専門家にまかせるが、この負の連鎖を断ち切るためには、やはり公共事業は重要な景気対策ではないのか。事業仕分けで公共事業や官僚がまるで悪のように裁かれた感があるが、このような時代にお金を使えるのは国である。また、公務員の給料カットも定説のように行われるが、これにも疑問である。確かに公務員でない私にとって、景気に左右されない給与はうらやましい額である。だからと言って、給与を下げ続けると、それにあわせて民間はさらに下げられてしまう傾向に陥る。結局はここにも、負の連鎖だ。
それでも、自民党政治の終焉を望んだのは国民であり、この流れを「善」と信じて選んだ国民の総意である。まだまだスタートしたばかりの民主党政権には期待もするが、世界の中の日本という構図で考えると、先行き不安である。何より、私が不安に思うのは、未来を担う子どもたちが、責任ある地位に着くことを「損」と感じてしまうことである。いや、まだ「損」なら救いはあるが、権力に対し「悪」を感じてしまうという、思想的な刷り込みに繋がらないかという危惧である。
昔は「末は博士が大臣か」と言われ、子どもの将来を期待する言葉が存在したが、今はどうだろう。博士は儲かりそうもないし、政治家や官僚になって一生懸命働いてもあまり感謝されない。一時のベンチャーブームも金儲けは悪とばかりに社会に握りつぶされた感がある。この上昇志向を削ぐ風潮の中にあって、子ども達に何を夢見て成長しろというのか。
日本では国も地方も「削減」「縮小」「凍結」という文字が誇らしげに踊るが、心配なのは正義の大合唱の底流に「出る杭は打たれる」的な感情が支配していないかという疑問だ。弱者救済が大切な事業であることは解りきっている。しかし、努力して能力を身に付けた人間を正当に評価できない社会ではこの国の未来は危うい。正義の大合唱の首謀者に問いたいのは未来への投資という指標だが、答えはだいたい予想がつく。お得意の平等主義に基づく「みんなの英知を結集して」という責任者不在の答だ。
そういえば、事業仕分けの次世代スパコンの予算凍結問題に対し、ノーベル賞受賞者の野依良治氏は、「削減、凍結という方々は、将来、歴史という法廷に立つ覚悟はあるのか。科学技術振興や教育はコストでなく、投資だ」と語気を強めたが、その通りだとテレビの前で拍手喝采した。よそ事ではなく、身近にもこのコメントを投げかけたい場面は多々ある。「病は気から」というが、「景気」という文字にも「気」が付いている。2010年は、景気を押し上げる明るい「気」が満るように祈っている。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

September 2009

お墓事情

 義理の父の13回忌の法要が終わり、お墓についてふと考えた。私は広島県三原市の生まれである。私が二十歳の頃に父が亡くなったが、その父は跡継ぎだったため、実家のあった三原の墓に眠っている。私も長男であるため、やがて父や祖先が眠る墓に一緒に入ることになる。しかし、三原は生まれた土地であるが、幼い頃に広島市に引っ越した為に、今は知り人も殆どいない地である。今、こうして宇部の地で縁あって暮らしていると、この地に知人も多くでき愛着が湧いている。おそらく、終の棲家は宇部であろう。死んで無になってしまうとはいえ、ここを離れるということは少々寂しい気がする。
人生の折り返し地点を過ぎ、みんなは墓についてどう考えているのだろうかと、素朴な疑問がわいて来た。この少子化の時代、家を継がせる跡取りがいないことは多々あり得ることだ。ということは、墓の面倒を見てくれる子どもがいない時代も到来しているのかもしれない。永代供養をするということは、そういうことなのかとしみじみ考えた。
そんなことを考えつつ、今の墓事情を調べて見た。先祖代々、一族で継承する墓は一般的である。その他に土地の狭い日本では、墓という形態をとらずロッカーのような納骨堂という方法もある。また、最近では「夫婦墓」や「個人墓」が結構あるらしい。これらは、墓に対する考え方が昔と大きく変わっていることも背景にある。そう言えば、テレビ番組のアンケートで「夫の実家の墓に入りたくない妻の割合が70%」というショッキングな報道があった。
舅・姑との仲が悪いならまだしも、真意はもっと深刻だ。死んでからも夫と同じ墓に入りたくないという妻がかなりいるらしい。私の妻は30%の少数派と信じたいが、妻の実家は宇部に近く、しかも身内との絆は極めて深い。そうなると当然、遠距離にあって知らない人間が眠る私の先祖代々の墓には入りたくはないだろうという推測はつく。妻の気持ちを思うとこの地に墓を建てる選択が望ましいのは確かだ。私にしろ、前出のデータもあるので油断はできないが、現時点では一番供養してくれそうなのは妻である。となると、先祖には申し訳ないが、この宇部に葬って欲しいというのが正直なところだ。
こうして墓の在りようを考えると、家という単位から個人が尊重されつつある現在、日本人の墓に対する認識も必然的に変化せざるえない現実が見えてくる。昔は家の跡継ぎが墓も継承し、分家は当然新しい墓を建てる。法律で決まっていることではないが、日本という風土の中で継承され続けて来た常識である。しかし、故郷をどこにでも作れる現在、最も深く人生を刻み、人との関わりを持ち得た土地に眠りたいと願うのは身勝手な考えなのだろうか?また、「何々家の墓」と墓石に刻むのではなく、好きなデザインで好きな言葉を刻む墓もある。供養して欲しいというより、自分自身の存在証明をこの世に残したいという気持ちの表れであろう。様々な生き方が選べる現在、自分の最期も自由に発想できる時代となった。ただし、現実に実行できるかどうかは“お金”と相談ということか。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

August 2009

モン・サン・ミシェル

 4年振りにドイツへ仕事で行ってきた。仕事先は前回と同じだが、今回は仕事を終えた後、クライアントの好意でフランス、しかも世界遺産である修道院「モン・サン・ミシェル」へ立ち寄ることが出来た。「モン・サン・ミシェル」をすぐにイメージできない人には、海に浮かぶ古城と言えば解るかもしれない。一目見るだけで、その姿は人々の心を鷲掴みにする。自然と建造物の作り出す圧倒的なスケール。時間というスケールでは図りきれない歴史が存在することをその姿は静かに語りかけている。
ここを訪れるために、私たち一行は早朝7時半、パリ三越前からモン・サン・ミシェル行きの高速バスに乗り込んだ。パリから360km、片道約4時間。なんと往復で13時間という観光コースだ。1時間も走ると車窓に牛や羊がのんびりと遊ぶなだらかな丘陵地帯が広がって来た。「美しい、まさに欧州の色だ」と、勝手に決めつけた。本当に、その言葉がぴったり当てはまるように、天気は快晴、空の色、陽の光、小麦畑の黄色と牧草の緑、日本の色からまるで濁りを取り去った軽やかな色だ。この美しい風景を車窓越しに楽みながら、バスは「モン・サン・ミシェル」のあるフランス西海岸ノルマンデイー地方へと向かう。
着いたその街は巡礼と観光の地であった。このサン・マロ湾に浮かぶ小島を訪れる観光客は年間150万人と推定されている。現在は道が作られ潮の干満に関係なく島を訪れることができる。しかし、訪れた観光客は、混雑に辟易すると同時に厳しい坂道を登り切れず、島を訪れても山頂の修道院「モン・サン・ミシェル」まで辿り着く人は年間65万人と半分にも満たないという現実もあるらしい。島の門をくぐると、レストランや土産店が並び、まるで日本の世界遺産のひとつ「京都の清水寺」周辺を思いだした。道は細く急で、多くの観光客で溢れかえっている。我々一行には80代のご夫人もいらっしゃったが、修道院まで見事に登り切った。その健脚振りとは裏腹に、私は帰りには階段を踏み外し、周囲から心配されたほどで、日頃の運動不足が証明されることとなった。
さて、モン・サン・ミシェルは日本語に訳すと「大天使ミカエルの山」という意味らしい。光を導き、闇と闘う大天使ミカエル。この大天使ミカエルのお告げにより8世紀の初めに建造された大修道院である。修道院の内部は増築と修復を繰り返し、ゴシック建築とロマネスク建築様式が時代の変遷を刻み、融合している。外から差し込む光と建物の中に存在する深い影が美しいが、もっと人が少なかったら神秘さが増幅するのにと贅沢なことを考える。
さて、この「モン・サン・ミシェル」の一番の魅力は景観にある。海と砂浜に囲まれた厳しくも美しい姿である。ただ、問題は島に繋がる道を作ったがために、砂の堆積量が増え陸地化が進んでいるらしい。このままでは海に囲まれた「モン・サン・ミシェル」という景観を失う可能性がある。そのため、この道を撤去し橋を架ける計画が進んでいるという。環境問題と同じで、理解と対処のスピードが求めらている。最後に、ここの有名なオムレツには要注意。こんなところで、「名物にうまいものなし」なんて言葉をあてはめるとは思わなかったが、日本人の口には合わない気がするのだが、いかがなものだろう。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

July 2009

政治家はつらいよ。

 東国原県知事の発言で、自民党はかなり揺れた。「芸人あがりに何ができる」とか「そこまで落ちるなら自民党は解散だ」とテレビで発言する大物議員がいるほどだ。さすがにそう簡単には大臣のポストは与えられなかったが…。先程の発言をした大物議員は、マスコミの予想では今回の選挙は非常に厳しい状況にあるらしいが、東国原県知事の要望は腹に据えかねるものだったに違いない。それにしても、頼もしいまでのしたたかさを備えた東国原県知事、大阪の橋下府知事ともにやがて国政の中枢を担うようになるかもしれない。
さて、麻生総理が就任以来抱いている「どす黒いまでの孤独」。支持率が下がっても上がっても、この孤独が消えることはないという言葉を聞くと、総理を続けられるのは驚異の精神力があってのことなのかと考えさせられる。ドタバタ劇が起こるたびに「求心力低下」とマスコミに叩かれ、気がやすまる日はないだろう。結局、何をしても悪く書かれるので、何もしたく無くなるだろうと考える私は完全に政治家の器ではないことは確かだ。きっと「どす黒いまでの孤独」には押しつぶされる。周りは敵だらけなんて政治家はつらい職業だ。
昔はマスコミが政治家を守ったと言われるが、今は完全に敵である。何かと批判の材料とされる「アニメの殿堂」も、安倍元総理のときに決まったことなのに、まるで麻生総理が思いつきで決めたような騒ぎでバッシングされている。民主党の鳩山氏からも、なぜ117億円も使って「巨大な国営マンガ喫茶」を作るのかと揶揄され、与党内でも「無駄使い撲滅プロジェクト」で予算凍結を求められるなど、賛否が分かれている。私も昔のように117億円のハコモノを作って終わりという状況はどうかと思うが、日本のマンガやアニメ、ゲーム制作は世界に誇るべき芸術であり産業だと思う。だから基本的には賛成である。立派に海外から人を呼べる魅力ある存在だと考える。保存すべきものは保存し、守るべきものは守る。同時にコンテンツ産業の発展に繋がるようその魅力発信に力を注ぐべきである。「国営マンガ喫茶」よりも他にやるべきことがあるはずだと言われるが、単に予算を福祉にすり替えればよいといった問題ではない。守勢一方では限界がある。同時に戦略的な攻撃があってこそ、国民を守れるのではないか。ただ戦略的という部分に民間の発想や努力が不可欠であることは確かだ。
この「アニメの殿堂」、仮称ではあるが「国立メディア芸術総合センター」というらしい。しかし、この名称では海外から観光客を呼べないだろう。海外でも通用する「マンガやアニメ」という言葉は外せないはずだ。現にマスコミは「国立メディア芸術総合センター」とは呼ばず「アニメの殿堂」と呼んでいる。これこそが、役人発想と民間発想の違いである。否定ばかりせず、日本という国の利益のため、官民の英知が今こそ必要な時代だ。こう考えると、宇部市民も国政を批判ばかりはできない筈だ。この地域も産業創出という命題を抱えているからだ。もっと視点を足下に移し、深く熱く今を掘り起こし、未来に投資すべきである。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

June 2009

諦めを捨て去ろう。

 第59回日本観光ポスターコンクールにおいて宇部・美祢・山陽小野田産業観光推進協議会からの依頼を受けて、私が制作したポスターが特別賞を受賞した。このコンクールは1947年に開始され、我が国において有数の歴史を誇る全国レベルでのコンクールである。コンクールへの出品を協議会事務局から聞かされたときには、正直なところ「モノは試し」なんていう甘い期待感は、微塵も持ち得なかった。というのも、このコンクールのハードルの高さを知っていたからだ。ライバルとなるのはJRの駅貼りポスターであり、電通や博報堂など日本有数の広告代理店である。しかも、今回の作品はA1判とサイズが小さく、B全判が主体の中では明らかに見劣りがする。悲しいかな、地方、それも市というレベルになると予算は限られるからだ。そんな状況下にあっての受賞は、この地域の産業観光に傾ける情熱を何とか誇りのデザインへと仕上げられた結果であり、内心ホットしている。私を担当して下さった協議会事務局の二人に感謝したい。 さて、ポスターは言うまでもなく1枚の紙である。しかし、この平面に如何に的を射た切り口をもって情報を凝縮するかが、デザイナーに課せられた使命である。 その為には、事業の本質を掌握するという前提が必要となり、この理解度こそがポスターの仕上がりを左右するといっていい。今回の作品はこの地域の産業の礎を築いた宇部興産の創始者渡邊祐策翁、美祢の大理石を産業へと育てた本間俊平翁、小野田セメントの創始者笠井順八翁という三人の翁を主人公に形成したが、この翁達の人生に触れることにより、導かれるように創作意欲が駆り立てられたといっても過言ではない。ポスターに「人が創りし産業の礎 その汗と志はまちを創る大河となった」というコピーを刻んだが、私自身も突き動かされて行ったわけだ。
ここまで、自らの仕事を紐解いてくると、この地域のデザインの現状を書きたくなってきた。今までこのコラムで地元のデザインについて語ることを封印してきた。何故なら、頑張っているのに報われないだろうなと感じるデザインに多々出会うからである。溢れる情報の中で、選ばれない情報は無情にもゴミと化してしまうのだ。広告にしろ、商品・店舗にしろ、受け手はあらゆる情報をそこから読みとる。だから難しい。長年、グラフィックデザイナーとして仕事しているが、この地域はデザイン環境が遅れていると感じる。原因は発注者側、制作者側と、両方に在るのだが、デザインについてあまりにも不勉強であり、目利きでないことに尽きる。両方がそれぞれのレベルを上げることには躊躇し、現状維持には躊躇しない。むしろ積極的である。だから、私はお互い「もっと欲張りになれ」と言いたい。発注者側の意見、制作者側の意見、それぞれ目指すべき位置をはっきりと示し、意見を交わすべきだ。地方だから、予算がないからと、求める心を押さえつけ、最初から諦めていないか?
話は戻るが、三人の翁は地方だからこの程度でいいと考えは微塵もなかったはずだ。「もっと先へ、もっと前へ」という考えだったからこそ、それぞれのまちに産業が定着している。この精神を我々は受け継いでいかなければ、平時でない今、地方の衰退都市で終わってしまうだろう。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

April 2009

北朝鮮からの飛翔体

 4月5日、北朝鮮が人工衛星として発射したミサイルが日本上空を通過した。のほほんと平和ボケした我々日本人には、思わぬ緊張が走り、今後日本が攻撃される可能性もあるという現実を突きつけられた。
さて、北朝鮮から飛翔体が発射された前日の4月4日には、誤探知情報がそのまま政府情報として発表され、すぐに訂正する騒動があった。防衛省内での情報伝達はこの間僅か1分、その後情報は官邸へ送られ、エムネット、すなわち緊急情報ネットワークにより、全国の自治体やマスコミへ一斉送信された。はじめて運用されたエムネットでの顛末であったが、これを責めるより誤情報がそのまま官邸へと上げられた経緯の原因究明とその改善に力を注いで欲しい。ハードもソフトも進んだが、それを使うのはやはり「人」であることを改めて思い知らされた。自衛隊はこれほどまでに、国民から熱い視線を送られた経験がなかっただろう。その為、自衛隊内のプレッシャーは想像に絶するものだったに違いない。迎撃の確立はあまり高くないとはされながらも、もし日本に落下なんてアクシデントがあれば、迎撃は自衛隊の誇りにかけて成功させなければならない。そのためには、一刻も早い情報伝達が必要だ。時間との戦いの中に、落とし穴があったのだろうか。しかし、5日に発射された際は迅速な連携が行われ、それに日本の遙か上空を通過してくれたのでほっと安心。咲き誇る満開の桜を背景に、地対空誘導弾PAC3が据えられている映像に違和感を持てることのへ幸せをつくづく感じた。
しかし、北朝鮮は人工衛星打ち上げは成功と言い、米国は失敗と言う。どちらの言うこともそのまま信じられないが、日本という小さな国が世界の中でどの位置に立てばいいのかは分かりきっている。問題は、世界の中でどれだけ発言力を持ち得るかである。今回日本政府は、力強い言葉で明確に日本の立場を表明した。日本政府の強気の姿勢に、頼もしいと感じているが、反面不安なことがある。それはなぜか国民が平時に飽きているような錯覚に陥ることである。まるで退屈しているような…。今回のこともちょっとしたショーのような感覚で眺めているのではという不安である。自ら戦争を引き起こすことは決してないが、他の狂気が生まれそうな怖さだ。世論調査によれば、北朝鮮の発射を受けて防衛費を増やすべきだという国民が圧倒的に増えたという。だが、2006年にも日本海に向けて7発のミサイルが発射されているが、その後北の脅威に対して、どのぐらい国民は議論を尽くしただろうか?この度の発射によって、今回の「テポドン」より日本にとってさらに脅威だったのは、3年前に発射された「ノドン」である事実を知らされたが、当時のマスコミの扱いが低かったと感じるのは私だけか…。危機意識を持って、歯ぎしりしていた軍事専門家の心情が想像できる。マスコミは視聴率に揺り動かされる宿命を背負う。この現実を認識しておきながらも、マスコミが最初から判断を下して送り届ける情報によって、世論が左右される怖さに狂気を感じるのだ。個人主義が進むにつれて、国の命運をどこか他人事のように感じていないか。民主主義国家である日本の安全は、我々国民個々に委ねられている。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

March 2009

「工芸のいま」鑑賞記

 九州国立博物館で開催されている「工芸のいま 伝統と創造」という特別展に行って来た。この開催の背景は面白い。歴史の流れを辿るような作品展示ではなく、現在活動している作家達の作品にスポットをあてているのだ。通常、こうした工芸展は有名デパートなどを会場として開催されるが、それが国立博物館で開催されている。内容の意味する深さは知らずに、この会場を訪れた私は、作家達の力強い息吹に圧倒されそうな感じに少々とまどった。何を隠そう、目では「工芸のいま」というタイトルを認識しているが、頭の中では「工芸の歴史展覧会」であったからである。
さて、この展覧会、九州・沖縄の日本工芸会の正会員のほとんどの(159人中137名)作品が鑑賞できる。正会員とは日本工芸会の開催する展覧会に4回以上入選しなければ、その資格がないそうだ。この展覧会の第一部ではその作家達の2000年以降の作品が輝きを放つ。正に作家達の「今」が「国立博物館」という最高の舞台に展示されているのだ。第二部では「伝統工芸の精華」と称し、九州・沖縄の作家以外も含め、人間国宝の作品が堂々鎮座する。
しかし、やはり面白いのは第一部である。この展覧会には賞が設けられているわけではない。では、どうやって展示の作品を選んでいったのか、その背景は図録に詳しく書かれていた。まずは九州国立博物館の研究員10人が九州・沖縄の各県に散り、作家達に直接面談し、作家の代表作を選ぶ。だから、図録には何年にどういう賞を受賞したというおきまりのプロフィールだけでなく、短い文章の中に作家たちの生き様が息づいている。これはこの地域の作家達の「10年カタログ」だと言い切ってあったが、まさにそうである。
図録の中で日本工芸会西部地区の中島宏幹事長は、「人間というのは大舞台に立たたんと育たないんですよ。背伸びしてでも一流の場でやっていく。そうするとそれなりの責任とプライドが出てくる」と語られていた。工芸については、広い底辺を持つ九州・沖縄だが、今回設けられた九州国立博物館という大舞台は、作家達を奮い立たせ、今後10年の創作活動に大きな布石を打ったに違いない。
そもそも、伝統工芸は無形文化財に属し、有形に比べ保護措置はそれほど積極的ではないらしい。併せて、商業的な思惑と結びつけられるのではという憶測もあって、国立博物館での開催に二の足を踏ませていたのだろう。しかし、今回の開催はよく言われる行政的発想、3U主義(上向き・内向き・後ろ向き)を突破し、実を取って見事に未来に繋げた企画展と言える。トップのリーダーシップと学芸員達の情熱無くしては実現できなかっただろう。工芸品は美術品ではない。伝統の技を持って美しさを表現し、尚かつ生活の中で支持されなければならない。まさに日本文化の変遷は伝統工芸品の変遷と表裏一体だ。
今回、非常に心惹かれる作家に出会うことができた。そうなると俄然「窯」を訪れたいという衝動に駆られてくる。この意識の一つひとつの集約が、地場産業の振興に繋がり、伝統工芸の保護へと辿り着く。今回の九州国立博物館の画期的な意識改革に心から拍手を送りたい。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

January 2009

日中トイレ事情

 中国好きの私は、お正月に北京に行ってきた。何もわざわざ寒い時に寒い所にいかなくてもと、中国人の友人は不思議がっていたが、ウィークデーに仕事を休んで海外旅行へ行けるほど恵まれた環境にはない。しかし、友人の言う通り、北京はとにかく寒かった。寒いなら雪でも積もって雪化粧の情緒でもあればいいが、ただ街中の川が凍っているだけだ。同じ悠久の都でも西安と比べて情緒不足?の感を拭えないと感じたのが第一印象だった。特に、天安門広場と故宮博物院。スケールの大きさには圧倒されたが、そこには樹木などの植栽は殆ど見られない。多くの人民が集うためのスペース確保のためなのか、警備の都合上なのか、情緒が感じられない。それに、オリンピックに向けて、建造物の色はきれいに塗り直されており、歴史の重さが喪失している。時の流れがかき消され、映画のセットのように見えてしまう。つまり、北京は政治を司る街なのだ。観光客が期待するような情感はできるだけ排除されていると感じた。  しかし、そんな北京でも、トイレ事情は他の都市と根本的に変わらない。トイレはあまり重視されていないというか、おおらかだ。ドアの鍵が壊れたままだったり、ドアが閉まらないなど。トイレットペーパーはホテル以外には殆ど供えつけられていない。そのトイレットペーパーもトイレには流さない。なんと言っても衝撃だったのは、トイレのドアを閉めないで用を足している人に出くわしたことだ。それで、判明したのだが、中国のしゃがむタイプのトイレではドアの方向に顔を向けるらしい。つまり日本の和式トイレとは逆なのだ。近代的なビルを建て、先進国を追い抜かんばかりの中国。だが、なぜトイレに対する考え方はこうも違うのだろう。  「郷に入っては郷にしたがえ」というが、2年前に坑州でドアがなく隣とは低い衝立だけのトイレに遭遇した。こういうトイレを隣の人と挨拶ができる状況から「ニィーハオトイレ」というらしい。基本的には、洋式も増えて世界標準に近づけようとはしているのだが、根本的にトイレに関する考え方は日本とは明らかに違う。トイレを使用するということは、人間の生理現象で恥ずかしいものではないという考えが基本にある。その国の公衆トイレを見れば文化レベルが分かると言われるが、そういう西洋的な尺度はこの国には通用しない。中国に何日間か滞在すると、日本人のトイレに対する信仰は馬鹿らしいことなのかとも思えてくる。  しかし、福岡空港からの帰り、高速道路の古賀サービスエリアに寄った。まずはトイレだと、トイレ空間に足を踏み入れた。きれいだ。ダークな茶系の木製ドアに色調は統一され、間接照明の空間へと一新されていた。手を洗う洗面台も、手を差し出すと自動でなめらかな泡が出でくる。水はもちろん適温のお湯だ。日本が世界で生き残る術は、やはり「いたれりつくせりの心であり、それを表現する技術」だと再認識させられる。これはすべての産業で通じることだ。日本の武器はサービスを通して伝える「もてなし文化」にある。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

January 2009, NewYear

疾風怒濤

 2008年は風のように過ぎて、怒濤の荒波をねじ伏せながら泳ぎ切った。しかし、ほっとする間もなく2009年は明けていく。戦後最悪の景気とマスコミは騒ぎ立てるが、こんな世の中であってもよそ見をする暇がないのが幸いして、毎日忙しくしている。周りにいる人から必要とされ、私自身も周りにいる人を必要としている。大きな財は築けそうもないが、これが2008年への感謝であり、2009年への希望である。
さて、昨年更迭された自衛隊の田母神前航空幕僚長の論文をめぐって、様々な論議がなされた。このことはシビリアンコントロールが守られているかどうかということよりも、侵略国家という史実を背負わされ、頭を下げ続けてきた敗戦国日本の呪縛を解くきっかけとなったことに、少々爽快感を持った。長い間よどんでいた空気が少し通ったような感じだ。戦争を肯定するわけでも、右寄りな考えでもないが、ただ「自衛隊か、軍隊か」という議論をすること、また「日本が核を持つのか、それとも同盟国の核の抑止力に頼って核の傘に入るのか」など、真剣に自分の頭で考えてみるべきだと思う。政治家や思想家以外は、そんなことを考えること自体が悪だった戦後の日本の教育は忘れて。世界の中の日本、そして均衡の上に成り立つ平和ということを解らずして、成熟した国家にはなりえないと考えるからだ。考えれば考えるほど、未熟な自分が見えてくる結果となるが…。
今年は総選挙の年だ。今回の田母神前航空幕僚長の件で「村山談話」が引き合いに出される機会が多かった。そう、その頃は社会党政権だった。そんなことを知らない若い人も、記憶の彼方に霞んでいる人も、選挙に投じる一票はこうした国を背負う結果と繋がっていることを認識しなければならない。2009年はマスコミに踊らされず、私も含め自分の頭で考える人間がひとりでも増えることを願う。そして、正しい人に必要とされる限り、疾風怒濤の如く仕事も引き受けます。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起