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吉井純起コラム  /  

October 2013

カープ男子

 甲子園球場が赤に染まった。広島出身でカープファンの私としては、クライマックスシリーズのあの光景を目にしただけで目頭が熱くなる。まさか、まさか、こんな日が再び訪れるとは。思い起こせば22年前。そう、確かにカープはリーグ優勝を果たした。日本一にも3度輝いている。その後カープは暗く長いトンネルに入り、抜け出せなくなった。成績は低迷を続け、Aクラス入りしたのは16年前のことである。
 しかし、今年は違った。後半の劇的な追い上げがあって念願のAクラス入り。なんと3位である。投手陣の活躍もさることながら、途中加入した助っ人・キラ選手をよくぞ見つけてきてくれたと、スカウトに手を合わせている。クライマックスシリーズを戦えるということが、こんなにも晴れがましいものかとしみじみ感慨にふけった。巨人ファンには生涯理解できない気持ちであろう。広島では特別番組も組まれ、まるで優勝したような騒ぎである。そして、下克上だといわんばかりに、士気が高まる。テレビのインタビューに応える広島ファンの声が愛おしい。「そうか、お前もか!? 長かったなぁ」と、また胸が熱くなる。
 さて、カープは「赤ヘル」として有名だが、1975年以前はヘルメットの色が紺色だったことをご存知だろうか。当時就任したばかりのルーツ監督が、チームに戦う意識を浸透させようと、ヘルメットを「赤色」にチェンジしたのだ。それまでは、ユニフォームに赤いラインは用いられていたものの、紺色のヘルメットで、まるで野武士のような地味なユニフォーム姿だった。それが、いきなり「赤色」である。まだ、若かった私は、田舎チームが派手な「赤色」なんてと、恥ずかしく感じたことを記憶している。こうして、カープは「赤色」をチームカラーとし、大きくイメージチェンジを図ったのだ。しかし、しかしである。「赤色」効果かどうかは不明だが、カープはその年「赤ヘル旋風」を巻き起こし、悲願の初優勝を果たしたのだ。確かに赤色は“元気”の象徴であり闘志を表す。「赤色」は、意識を無意識のうちに変えたに違いない。残念ながら「赤ヘル」を提案したルーツ監督は、球団と意見が合わず、わずか1ヶ月で早々に退団したが、その後を受けた名将古葉監督が見事にカープを優勝に導いた。親会社を持たない、弱小市民球団がようやく辿りついた頂上は、甘美というより、涙でしょっぱい優勝であり、やっと他球団と肩を並べられたという安堵感をもたらす優勝でもあった。
 さて、昨年までのカープは低迷が続き、ファンもくたびれているかと思ったら、最近はカープ女子なる新しいファンが増殖しているらしい。確かに、色白の丸選手を始めカープ選手はなかなかイケメンが揃っている。しかし、そういうビジュアル面だけではなく、弱いチームがひたむきに野球に打ち込む姿に感銘を受けるらしい。母性本能をくすぐるとまで言われている。おじさんとなった私も、カープには長い間母性本能をくすぐられつつも、時々怒り狂う鬼と化すカープ男子だ。
 今年は、久々に血がたぎる思いをさせてもらった。カープよ、来年こそは堂々のリーグ優勝だ。機動力のある緻密な野球を復活させてくれ。最後に、今シーズン限りで引退をした前田選手のことに触れたい。カープファンは、前田選手から現役という二文字が消されてしまう日を恐れていた。あのイチロー選手が唯一天才と認めたバッターだ。怪我さえなければ、3000本安打を達成したと言われている。度重なる怪我から立ち上がってくる不屈の闘志。数字に置き換えられない24年間の野球人生は、ファンの記憶から消されることはない。引退試合の日、「バッター、前田」とコールされた球場のどよめき。そして、ピッチャーゴロで打ち取られた後、ファンに手を挙げ、球場を見つめ、彼はダッグアウトへと消えていった。彼が最後に球場を見つめる目は、もうここにいてはいけないと自分の引き際に決着をつけているようであった。こうして、カープ一筋の男が現役というフィールドから去った。天才にして努力の人、前田智徳。私の心の中では背番号「1」は永久欠番である。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

August 2013

平和の使者

  先日、日本のレース鳩が太平洋横断をして、8000キロ離れたカナダで保護されたというニュースを目にした。実を言うと、私は隠れ鳩ファンである。今は飼育する環境には無いが、老後は自身の鳩を保有し鳩レースに参加したいと真剣に夢見ている。  そもそも、レース鳩とは公園や駅前で餌をついばむドバトとは違う。ドバトと同じ環境では生きていけない鳩なのだ。帰巣本能の強い優秀な血統で積み上げられた鳩だけが、生まれることを許される。そして、良質の餌が与えられ、緻密な管理の元、計画的な訓練を受け、愛情をこめて育てられる。まさに品種改良された鳩のサラブレッドである。5月くらいだが、中国人がレース鳩を約4100万円で落札したというニュースが報じられた。鳩レースでも中国マネーは世界を席巻している。
ところで、私が何故鳩に惹かれるか。それは、自由の翼を持った鳥が自らの意思で、飼い主の元に骨身を削って帰還することにある。これは鳩の帰巣本能だが、そこには 本能を超えた、飼い主との信頼関係が存在していると信じている。だからこそ、一心不乱に帰ってくる鳩が愛おしいのだ。
 ちょっと鳩レースのことを説明するが、鳩レースとは各鳩舎から持ち寄られた鳩を同一地点から一斉に放鳩し、どの鳩が一番早く帰るかタイムを競うものである。そのレースの距離は、日本では100キロから1400キロまで様々である。だから、私にはカナダで保護されたレース鳩のニュースを一般の人はどう解釈するのだろうかと、ネット上の意見交換を興味深く見守った。ネット上での議論だが、的外れの内容が多く、いずれも美談に仕上げられており、論調としては「長距離を飛び切った優秀な鳩」とされていた。中にはヨットで太平洋横断に挑み、途中断念した司会者の辛抱治郎さんと比較して「辛抱さんより辛抱した鳩」とか、迷走発言の鳩山由紀夫元首相を引き合いに「どっかの鳩とトレードしたら良い」などと突っ込みには感心するが、レース鳩の知識がないので本筋とはズレており、じれったいものであった。
 そもそもこの鳩の所有者は茨城県石岡市の男性で、今年5月の1000キロレースに参加、鳩は北海道羽幌から放たれた。その鳩が自分の鳩舎には帰らず、8000キロ離れたカナダで発見されたのだから、驚きだったろう。男性は、鳩の輸送経費の負担もあって引き取りを拒否されたが、ネット上にはこの所有者に対して「冷たい」「もったいない」との意見が飛び交っていた。しかし、この所有者にとっては決して優秀な鳩とは言えない存在なのだ。おそらく、なんらかの理由で方向を見失い、船で羽を休めていたところ、自分の意に反してカナダへ着いてしまったのだ。つまり、運は良いが、ちょっと残念なレース鳩なのである。この鳩は不可抗力で他の地に運ばれたが、レース鳩がレースから脱落し、ドバトと一緒に餌を採ったり、他の鳩舎に紛れ込むなど、レース鳩として失格というより、恥なのである。
 かつては世界中で伝達手段として重要な役割を果たした伝書鳩。日比谷公園に鳩が多いのは各新聞社が伝書鳩として鳩を利用してきた名残だという。原稿やフィルムを運んでいたのだ。携帯電話の代わりに、伝書鳩持参なんて、創造もつかないが、その役目は、今や携帯電話やインターネット、宅配業者が代替している。近年は街の中に鳩が増え過ぎて害鳥としてのイメージもあるが、人類への貢献度を考えると、駆除することは悲しい限りだ。鳩は聖書の中では平和の使者とされている。若い人にはメールの代わりに鳩を連絡手段とした愛の交換を勧めたいが、鳩は行き来することは出来ず悲しいかな一方通行なのである。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

May 2013

水先案内人

 「ゴールデンウィークに初めて関釜フェリーを利用し、釜山へと向かった。この船旅は行きと帰りが船中泊となる。山口県という地の利から、多くの方が利用されたと思うが、私にとっては初の船旅で釜山もはじめてだ。普段忙しく暮らしているが、船旅は何しろゆったりだ。個室を取ったこともあって、久々にたっぷりの睡眠を取ることができた。それに、愛煙家の私にとってはデッキに確保された喫煙スペースは有り難く、潮風に吹かれながらの一服は格別だ。夜出航するので、航海中は波に浮かぶ光が見えるだけだ。かなり強い光りが均等に見えた場所があったが、あれは何なのか皆目見当もつかない。対馬?巨大タンカー?普段は闇を意識することはないが、月もなく何も見えない海は怖いものだとつくづく感じた。
 釜山と下関を結ぶ航路は、1905年関釜連絡船の就航にはじまる。この航路では、戦時中の1943年10月に崑崙丸という連絡船が、福岡県の沖ノ島付近で米国の潜水艦の攻撃により沈没している。乗員乗客655人中、生存者はわずか72人の惨劇だったとある。戦争末期に向かうこの頃から、日本のシーレーンはズタズタになり、やがて日本は敗戦を迎えこの航路は途絶える。1965年韓国との国交成立を経て、1970年関釜フェリーの就航が再開された。闇を突っ切るように進む今のフェリーには、温かな光がともり、個室は小さなホテルのようで居心地も悪くない。玄界灘に藻屑と消えた人々と同じ海で、同じ闇に包まれているが、平和という灯りが水先案内人である。
 下関港から13時間、目が覚めたら圧巻の釜山港に迎えられていた。実質の航海時間は8時間であるが、税関が開く朝8時までの間、船は港に停泊して巨大な釜山港と高層ビル群を見せつけられる。人口360万人の釜山と28万人の下関。山口県の港はかなり見劣りするなと劣等感を感じながら、入国手続きに進む。そういえば、下関港では手荷物検査が無かった。飛行機ではないので、荷物は自分で管理するし、液体もハサミもライターも咎められることはない。さすがに釜山入国時に手荷物検査を受けたが、船中の危機管理は大丈夫なのかという素朴な疑問が持ち上がる。多分、国内線同等と捉えられる程に、日本と韓国の関係は物理的にも精神的にも近い存在である証しなのだろう。しかし、残念なことに竹島問題を機に日韓関係に波風が立ち始めている。そして、両国の溝を深める言葉の応酬は日増しに激しくなる。円安ということもあるが、日本人観光客は前年比3割減だという。
 最近ある団体の過激な行動が日本で社会問題化している。確かに、どこの国にも過激な集団は存在するし、政治家も国内向けパフォーマンスとして強い政府を主張する。しかし、ここで危惧するのは一部の国家間の過激なやり取りに便乗して、個人のうさをはらす日本人が増えている現実だ。ネット上には顔の見えない国粋的な発言が日常化し、他国を罵る言葉で溢れている。日本の品格ある国家形成のためにも、断固美学を持って自身の考えを主張すべきだ。
 そういえば、今回の旅行で釜山の祭りに参加する日本の学生達と一緒になった。帰りの釜山港では韓国の学生とエールを送りあい涙で別れを惜しんでいる姿があった。熱を感じ、手を握り合える民間交流は両国の溝を埋めている。現在の深まるばかりの溝を埋めるには微力かもしれないが、この政治に左右されない地道な交流こそが両国の荒波を切り開く水先案内人だといえる。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

March 2013

春遠からじ

 先日、姪の結婚式が広島市の海辺のホテルであり、瀬戸内海の島々を眺める機会を得た。春の優しい光は、僅かに波光を煌めかせ、島も小さな船影もおぼろげに霞んでいる。正に、「The春霞」という美しい風景である。  霞とは、辞書によると空気中に浮遊するごく小さな水滴・ちりなどのために、遠くのものがはっきり見えなくなる現象とある。唱歌「朧月夜」でも、「菜の花畠に 入り日薄れ 見わたす山の端 霞深し」と日本の里山の美しい春の風景が歌われている。唱歌に興味の無かった私だが、年をとったせいか歌詞に素直に引き込まれ、気付いたことがある。唱歌は単に自然を歌うものでなく、人々の想いが染み込んだ里山の景色を歌っているのだと。
 「朧月夜」の作詞は高野辰之とされている。と言うのも唱歌ということで、作詞家名・作曲家名の記載は伏せられ、あくまでも伝聞で伝えられた事項らしい。それにしても日本らしい不可解な話である。唱歌を代表する「故郷」も彼の作詞とされているが、小さな頃は「うさぎ追いし かの山」という歌詞に、日本の風景を想い浮かべるだけだった。しかし、故郷を離れ、年を重ねると、父母や友がいるからこそ故郷なのだと気づかされる。そして「志を果たして、何時の日にか帰らん」という歌詞は、まさに胸の奥にしまい込んでは、時々そっと取り出す言葉となる。
 作詞家の高野辰之は、この歌詞に自身の決意を秘めている。お寺の娘である鶴枝と結婚するにあたり、義母から「人力車に乗って寺の山門から帰ることが出来るほど出世するならば結婚を許す」と言われ、将来の立身出世を約束したのだ。当時小学校の教員だった彼は、上京し、努力を重ねて出世を果たし、実際に人力車で山門をくぐったという。約束の日から27年という歳月が流れていたというが、それは目標というより「故郷」の存在が彼の支えだったのかもしれない。
 テレビでは、東日本大震災の発生から2年という歳月が経過したと伝えている。被災地からは、復興は進みつつも、人が暮らす気配が感じられないと悲しげな声が届けられた。ああ、これだと感じる。復興とは、単に自然や街を整備することではないのだ。被災後、唱歌が良く歌われるのは、人の目線で綴られた歌詞に入り込み、故郷をかけ巡り、そして懐かしい顔を探しているのだ。残念ながら、以前と同じ生活は取り戻せないかもしれないが、一刻も早く被災者の皆さんが納得できる故郷での生活がスタートできるよう願うばかりだ。
 さて、情緒をはらむ春霞という風物詩で文章をはじめたが、この春霞にはどうやら黄砂も影響しているらしい。この時期、ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠から黄砂が偏西風に乗って飛んでくるが、砂の飛来は今に始まった現象ではない。万葉集や古今和歌集にも詠われた春霞の正体の一部は黄砂ということか。大陸から海を越え、遥々やってくる使者のようで少々愛おしくもあるが、しかし現在の黄砂はpm2.5と呼ばれる大気汚染物質と共に飛来する。連日、テレビでは白く煙った北京市の様子を伝えているが、宇部市でも霞んだ空を眺めて、少々脅威を感じはじめている。他国のことながら、日本の技術でどうにかならないものかと考える。環境というキーワードで、隣国と仲良くできるきっかけを模索できないものか。どこの国でも、そこに人が暮らす限り、かけがえのない「故郷」である。震災復興も、隣国との関係も、「春遠からじ」といきたいところだ。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

january 2013, NewYear

ひとり声掛け運動

 「皆さん、最近イライラしていませんか?」。私自身、2012年を振り返れば、昨年ほど人間関係を難しいと感じた年はありません。国民全体が不安定な精神状態にあり、ストレスを抱えているように思えます。ITの発達は便利さと引き換えに、希薄な人間関係を増幅させ、肉声による情報交換の場を奪い、どこからでも一番安い価格を選択できる乾いたビジネスシーンを作り上げました。結果、競争の激化はストレス社会を生み出し、これに日本人気質がもたらす現実的なコミュニケーション不足が拍車を掛けています。ネット上には心の隙間を埋めようと温もりを求める薄っぺらな文字が踊り、尚且つ、それをコミュニケーションと勘違いする精神構造へと向かわせているようです。しかし、いくら嘆いても、流れ始めたこの連鎖を断ち切ることはできません。  そこで、こんな風潮にささやかな抵抗をと「ひとり声掛け運動」を試みています。私は未だ愛煙家ですが、ますます追いやられる喫煙スペースで、同病相哀れむの心境をもって、その場に居合わせた人に積極的に話しかけるのです。それも、その場で一番キレそうな若者がターゲット。この見知らぬ人間からの突然の声掛けに対する反応ですが、これが意外にも、相手は一瞬驚きますが、次にはこぼれる様な笑顔を返してくれます。 別れ際も実に爽やかで、気持ちが晴れ晴れします。「袖振り合うも多生の縁」、偶然がもたらす煙草1本分の縁ではなく、その縁は必然的であると捉え、今年も煙草とともに「ひとり声掛け運動」の火を灯します。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起