December 2015

今年の結び

 最近、海外からの観光客が増え、日本のソウルフードとして、ラーメンなどの食文化に目が向けられている。ソウルフードとは、そもそもはアフリカ系アメリカ人の伝統料理のことらしいが、それがいつのまにか地域で親しまれている特有の料理を表現するようになった。私のソウルフードは何かと考えてみると、広島出身の私としてはやはり「お好み焼き」である。小さい頃は自宅から卵を1個握りしめ、お店でお好み焼きに卵を追加してもらっていた。こんな光景が日常だった良き時代だ。しかし、ソウルフードを文字そのままに「魂」と考えると、やはり「おむすび」だろうか。「おむすび」はコンビニでもその存在感は圧倒的だ。今や、韓国はもちろん、冷たいご飯を食べないとされる中国でも売られている。「おにぎり」なのか「おむすび」なのかという、定義は別にして、自分の中では、コンビニで販売されているものは「おにぎり」、妻の手づくりは「おむすび」と呼んでいる。

しかし、この「おむすび」。スーパーやコンビニで売られているものは、なんら疑問はないのだが、他人の手作りだと食べるのに抵抗があるのは私だけだろうか。現在の私は妻・母・義母の作ったものは大丈夫だ。そこが「おむすび」の不思議なところである。小学生の頃に、同級生からもらった「おむすび」を口にしたところ、吐いてしまった気まずい経験を持つ私の気質は大人になっても変わっていないのだ。

さて、この「おむすび」に、欠かせないもの、ご飯・塩・海苔は当たり前だが、あと必要なものは「空気」だと私は思う。手のひらで、ふんわりと結ぶ。そして、ほど良い圧力も必要だ。もっと、踏み込むと、空気ではなく、気であって、それは「食」を通した愛情であると思う。たぶん、素手で扱われた食べ物を、素手で口にするという行為は、命を預けていることで、とても体温を感じる食べ物なのである。そう考えると、やはり「おむすび」はソウルフードだ。また、「産霊(むすひ)」という言葉があるが、これは天地・万物を生み出すことを意味し、「おむすび」の語源だとの説も目にする。確かに、言葉は「結び」へと転化し、それが「おむすび」へと続くのだろうから、愛情の産物であることは間違いない。

さて、この「おむすび」。起源は、平安時代の「頓食」(とんじき)といわれ、米を蒸して作る強飯を卵形に握ったものとされている。今のように海苔で包むようになったのは、板海苔が作られるようになった江戸時代中期で、こんなところにも日本の凄い技術がいかされているのだ。

また、和食という観点から考えると、この「おむすび」は、寿司に匹敵する食べ物だと感じる。寿司が世界で受け入れられているのだから、様々な具と美味しいお米、味わい深い塩、そして香りの良い海苔、これらの組み合わせは外国人にも受け入れられるに違いない。「天むす」など、地方色を生かした「おむすび」があるが、各地の特色ある「おむすび」をもっとブランド化すべきだと考える。日本に観光客が増えているという今、日本の細やかな文化は魅力だ。

海外に行くと、歴史や自然に圧倒され、日本の地味な魅力に翳りがあるように感じていた。しかし、日本は特徴ある国だ。深化する文化だとつくづく感じるようになった。先ほど登場させた「おむすび」然り。心が食べ物に宿っているのだから、和食という食文化は深い。寿司、ラーメン・うどん、それに「おむすび」を加えて、日本のソウルフードとして、地域の魅力とともに発信させたいものだ。今年の結びの文章に、「おむすび」を題材とさせてもらったが、美味しく食べ物がいただけるというのは、「感謝」の二文字である。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

September 2015

東京五輪

 オリンピックのエンブレム問題は、日本中を巻き込んで喧々諤々の騒ぎになった。国立競技場建設問題もあり、東京オリンピックへの道程は何故か不穏な気配である。私はグラフィックデザイナーであり、今回のエンブレムの作者と同じ職業にある。そんなこともあって、様々な人達から「どう思う?」と意見を求められる。私の感想だが、近年の世界的潮流に反して、クラシックだが日本らしさを前面に押し出した堂々たるマークだというのが正直な意見だ。ベルギーの劇場に似ているというクレームがそもそもの騒動のきっかけだが、この疑惑に関しては今でも全く問題が無いと考えている。このエンブレムは、アルファベットをベースにしたシンプルなデザインであり、このデザインに行き着く過程が想像できる。何より、この作品が標榜する世界観は「日本」であり発想の着眼点が全く違う。色彩には日本を象徴する「赤・黒・金」が展開されており、完成度も高い。結果的には、展開例に使用した資料写真の流用が発覚し、使用中止となったが、経験あるデザイナーがこんな初歩的ミスを犯すとは信じ難く、残念であるとともに、一連の騒動の過程もしっくりこない。

 しかし、一番の問題はエンブレムのデザインが、多くの人に支持されなかったという現実だ。この事実を受けて、デザインを生業とする職業人として私なりに深く考えてみた。

 今回の作品の源泉は、1964年の東京オリンピックエンブレムを手掛けたグラフィックデザイン界の巨匠、亀倉雄策氏に端を発する。この亀倉氏の手による日の丸をイメージしたダイナミックな東京オリンピックのエンブレムはデザイナーのバイブルとして神格化された存在である。今回の作品を支持するという意見が専門家から多く寄せられが、計算され尽くされたシンプルな美の中に亀倉作品へのオマージュを感じたのだと思う。デザイナーはミリ単位以下の空間を考え抜く。

 例えば、日本の国旗は縦横比や円の直径の比率、位置は規定されている。しかし、過去には完成度を更に高めるためにプロポーションの修正がデザイナーによって提案され、この新しい設計の日本国旗は長野オリンピックに使用されている。デザインはそういう、細やかな法則で構成されているのだ。だから、一見華やかだが、自身の創造力を具現化するために、誰も気にしないような事象に膨大な時間をかけて完成度を高める地味な仕事なのだ。

 だが、このようなアカデミックな見解は受け手にとっては無関係で、今回の作品が国民から支持されなかったのは、国民と専門家のオリンピックの捉え方にズレがあったのかもしれない。審査委員会は日本の品格を象徴すべく、シンプルで堂々たる表現に重きを置いたが、国民は人間の可能性や夢の実現、感動・躍動感を求め、クラシックな色彩で構成された作品に疑問を呈したのだ。だが、エンブレムは単体で使われることは少なく、様々なビジュアルに展開される。二次元から三次元の展開へと着地点を想定し、夢や躍動感を担保しての構想は拡がっていた筈だ。とは言え、今回のクライアントは国民だ。国民はしっくりこないとの声を上げたのだ。専門家は「理解」し、国民は「感じ取った」という構図だろうか。

 時代は、ネット社会を背景にボーダレスとなり、誰もが意見を言える環境を与えた。この競技場建設とエンブレム問題は、これからの開催国にとって、どこにでも起こりえる課題だ。社会は成熟期に向かうと思っていたが、ネット上には混沌とした言論社会が形成され、まるで魔女狩りの様相だ。国民の一時的な感情に支配されてはいけないし、専門家の押しつけも良くない。クリエイターは聞く耳を持ち、国民は見えないものを読み取る見識を備えなければならない。時代の流れは経験値が役に立たないターニングポイントを迎えているようだ。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

May 2015

ハッピーノイズ

 最近、マタニティハラスメントなる言葉を耳にする。どうやら、妊婦に優しくない世の中らしい。また、電車内にベビーカーを持ち込む是非も議論されている。こんな世の中とリンクするように、私が暮らすマンションでも、子どもの騒音が時として問題となる。子どもが発生源の音は、自身の可愛い子どもや孫のものなら、一向に気にならない。しかし、他人となると気持ちは違う。特にマンションでは、他人との付き合いが希薄である。気になり出すと、怒りとして堆積してくるから、トラブルに発展しかねない。

 しかし、いつから日本人はこんなに我慢できなくなったのか。昔は地域に音が溢れていた。子どもは泣くものだし、大声で騒ぎ駆け回るものだ。そして、近所から叱られながら成長していく。あの家のおじちゃんは怖いぞとか、この時間帯は要注意などと、子どもながらに周りの情報をキャッチしていた。今は、親が隣近所に無関心である。まるで関心を持つ事が罪でもあるように。そして、他人の事情が解らないから、許しという気持ちを持つのが難しくなる。他人との距離感を常に気にして生活しなければならないのだ。

 そういえば、マンションでの自治会総会があったが、最初に上がった議題は、駐車場で子どもの自転車が車に接触するトラブルをどう防ぐかである。被害に合われた方の駐車スペースは自転車置き場のすぐ側にあり、過去に何度も傷付けられている。その方は、子どもが起こしたことだからと、加害者を追求することなく自分で処理されてきた。立派だ。しかし、今回は流石になんとかして欲しいという祈りにも似た叫びだ。被害者の方への同情から監視カメラを強化すべきとの案もでた。強化と書いたが、数年前に入り口付近とエレベーター内にカメラは設置済みである。しかし、私はこの意見に対して、釈然としない感情が沸き上る。以前付けられたカメラは外からの侵入者を防ぐための設置であり、防犯という側面があった。しかし、今回のカメラはマンション内の人間に向けられるもので、しかも対象は子どもである。仮に加害者が特定できたとして、責任をどう追求するのだろうか。加害者も被害者も、心の重荷を背負うことになる。幸いにも物理的対処方法を検討する方向で意見はまとまった。

 会議は進み、年配の出席者が自治会には余剰金があるのだから、この総会にお茶や弁当を出したらどうかという提案があった。他の出席者は、何も聞かなかったように聞き流したが、この方の意見は本質を突いていた。マンションの人間関係を深めたほうがいいとの指摘だ。私も同調したかったが、冗談も言えない空気感に負け言葉を飲み込んだ。そう、共通のテーマを話し合うのに、このよそよそしさは確かにおかしい。

 そんな総会をやり過ごし、ゴールデンウィークに飛行機を利用した。うとうとと眠るのも心地良いとくつろいでいたら、前の席から「わーん」というけたたましい泣き声だ。勘弁してくれと思った途端、マンションでの騒音トラブルが頭を過った。私自身、子どもが引き起こす騒音なんて広い心で許せよと感じていたからだ。しかし、いざ大声で泣かれると迷惑千万。正直席を代わって欲しいと考えた。ところが一時間位たっただろうか。前の席の隙間から、可愛い女の子が顔を覗かせる。私に笑いかけているのだ。何度も笑いかける姿はとても愛らしい。その瞬間、先ほどまで苦々しく感じていた騒音は、幸せな音に変わった。あぁ、これだ。ハッピーノイズ。もっと、みんな知り合うことが大切なのだ。知り合って、良いことも悪いことも許容できれば、随分と心の持ち様は変わる。まずは心の垣根を取り払おう。子どもの声は、ハッピーノイズだ。そう認識するだけで心は軽くなる。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

February 2015

ゴジラ愛

 昨年公開された映画ゴジラのレンタルが開始されたので、早速ショップに足を運んだ。私を知る人から見ると、絶対結びつかないチョイスだ。確かに、映画館に足を運ぶまでのファンではない。しかし、メードイン日本のゴジラを世界のハリウッドがどう理解して、如何に描くのかが非常に気になる。なにしろ、日本でのゴジラはもはや神の領域にある。1998年に初めて米国でリメイクされた時は、姿も含め、まるで理解が足りない作品に仕上がっており悲しくなったものだが、果たして今回はどうだろうか。

 さて、日本における当初のゴジラは、体長50メートルの大きさで、核実験により太古の眠りから目覚めたという設定だった。初めて公開されたのは1954年、この年、ビキニ環礁での水爆実験によりマグロ漁船・第五福竜丸が被爆し、社会問題となった。製作会社の東宝は、時代背景に社会性を含めたテーマをからめたストーリーでありながら、特撮映画でエンターテーメントを作りたかったのだと思う。ゴジラという名前は、映画の中では大戸島という架空の島の伝説の海神「呉爾羅」に由来するとされているが、実は力強い「ゴリラ」と大きな「クジラ」を合わせた造語から導きだされた単純なものだ。この軽いノリから考えても、文明社会への警鐘というテーマを持ちながらも、現在のゴジラが成し得ている神性化は想像しなかった筈だ。しかし、日本人はこの怪獣映画の主人公になぜか深い悲しみを見いだすようになる。その大きさ故に攻撃されるが、やがて観客は善か悪か決めつけられない存在である事に気付き、畏敬の念を持ち始める。ゴジラの存在は、文明の発達と自然との調和が崩れるときに起こる大きな災害を象徴しており、所詮、人間は生かされているもので、自然も宇宙の摂理もそこは神の領域だと人類への警鐘を鳴らす。科学で支配できない領域があることを知るべきなのだと。

 さて、今回のゴジラに目を向けてみよう。体長は108メートル。最初のゴジラの倍以上だ。確かに、高層ビル群の中で戦うわけだから、この大きさには納得である。ストーリーには難がありすぎると感じたが、迫力はさすがハリウッド映画と唸らされるスケールだ。そして、何より日本人として嬉しかったのはゴジラが世界から理解され始めていたことだ。第1作目は「GODZILLA」と表現され、名前の中には「GOD(神)」の存在はあるが、残念ながらストーリー中のゴジラには神が描かれていなかった。しかし、今回は少し違った。調和をもたらすという設定で描かれており、日本人としてのゴジラ愛はまずまず満足できる内容に深化していた。やっと、ゴジラ愛は海を超えたと言える。

 海を超えたゴジラと言えば、元ヤンキースの松井秀喜だが、広島カープファンの私の関心事は今シーズン、ヤンキースから広島東洋カープに復帰する黒田博樹投手の動向に尽きる。カープファンはこの朗報をどれ程待ち続けていたことか。「野球人生の最後は、育ててもらったカープのユニフォームを着て終えたい」と話してきた黒田だが、まさか本当に帰ってくれるとは。なにせメジャーで5年連続2桁勝利をマークしている正真正銘の大リーガーである。この右腕には、今季所属したヤンキースをはじめとする複数球団が触手を伸ばし、パドレスは年俸約21億6000万円を用意していた。たが、このオファーを蹴って、4億円プラス出来高という条件で黒田がカープ復帰を決めてくれたのだ。マツダスタジアムのマウンドに立つ勇姿を思い浮かべるだけで、今から私の胸は熱くなる。ファンの心に黒田投手の魂が吹き込まれて神が宿る瞬間である。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

january 2015, NewYear

男たちの挽歌

 新しい年を迎え、ますます頑固に精進する自分がいじらしい。悲しいのでも、誇らしいのでもない。ただ、いじらしいのだ。自分はまだ幼いと感じるが、世間から見ると老い先短い方の部類に入る。しかし、多くのことを経験したいという想いは今も溢れている。母や義理の母に目を移すと、「やぶれかぶれ」といいながら、楽しそうに毎日を送っている。当然、連れ合いは先にこの世を去っているのだが、女性は強い。この女性達の強さが、生きる手本だ。世間とかかわり合いながら、懸命に生きている。悲しいかな、男性は会社というカテゴリーに縛られ、退職後の過ごし方がわからない人が多いらしい。また、退職すると、仕事関係の人から無視されることがあると聞く。これは、自分の役職に対して、人が声を掛けていたのであって、そこに個は存在しなかったのだ。この現実を突きつけられ、愕然とするというが、そんな悲しい思いをしないために、仕事でも、家庭でも、地域でも、もっと自分の存在意義を磨くべきだ。

 男女同権といい、男性も女性も同じように仕事はするが、家に帰ると私自身、生ゴミの水気は絞ったことはないし、風呂の排水溝の掃除をしたこともない。きっと、そんなことが生活の中にはたくさん存在していて、全方向に物事が見えなくなっているのかもしれない。女性達は、仕事、家族、家事、社会という広いフィールドに生きている。しかし、男性はどうだ。何もかも狭くなりすぎていないか。仕事に重きを置くことで、社会人として優れていると錯覚していないか。退職後に、テレビを観ることだけを楽しみにリモコンを友にするなんて、悲し過ぎる。

 だから、私はそんな状況に陥らないために、仕事を超えた人間関係を作るように心がけている。幸い、私の仕事には定年はない。私が信じるデザインの力で、依頼者と喜びを共有できる夢を持ち続けている。夢は老いることがないのだ。そして、趣味の世界でもうひとつ、実現したいことがある。それはレース鳩を飼うことだ。強く美しい鳩を育て、肉体を燃やして帰還した鳩を手の平で包み込む光景を夢見ている。今年もこんなことを想像しながら、黒髪に霜の降るまでデザイン道に精進するいじらしい私である。手にはリモコンではなく鳩を握るために。

株式会社ヨシイ・デザインワークス 吉井純起

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